100年前の日本人と巡る!「台湾周遊唱歌」歌詞全解説
のこのこです。今日は台北は東門のとあるカフェにて執筆中。先ほどから蚊に襲われ続けています。結構かゆいです。
ところで突然ですが、皆さんは台湾をどこまで旅したことがありますか?
定番の台北、少し足を伸ばして高雄、台南、または台中……
旅行で来るときは、大体この4都市が定番かもしれませんね。
九州とほぼ同じ大きさの台湾島には、上記の都市以外にも見所がたくさん。
台湾人の間では台湾島を一周する旅行である「環島」が行われており、台湾人に生まれたからには一生に一度は環島をするべきだと言われています。
バイクの場合、環島での総走行距離はおよそ1,400km。のこのこは以前、10日程をかけて走破しました。
留学生でもない限り、ここまでの時間を使って台湾等を一周することは難しいかと思うので、今日は誰でも歌で台湾島を一周できる曲をご紹介します。
目次
台湾周遊唱歌について
台湾周遊唱歌は、明治43年(1910年)2月20日に発表された童謡です。
作曲は高橋二三四(たかはし・ふみよ)氏、作詞は宇井英(うい・はなぶさ)氏。
七五調の軽快な音楽に乗せて、当時の現地児童が歌を通して台湾の地理を知れるよう制作されたと言われています。
「汽笛一聲新橋を〜」で有名なあの「鐵道唱歌」から10年、当時の台湾は日本領となって15年目。
前年に落成したばかりの総督府鉄道縦貫線に乗り台湾の風光明媚な地理を歌いつつ、この15年で台湾が如何に発展してきたかを伝える内容となっています。
現在では当時の音源等は存在しないようですが、有志の方が初音ミク版を作成されているので、是非こちらをご覧いただければと思います。
台湾周遊唱歌の歌詞を全解説
台湾周遊唱歌の歌詞は全部で90番。長いので、まずは気になる地域やこれから旅行する地域から眺めてみても良いかもしれません。
なお、歌詞の一部には現代の基準からすると不適切な表現がありますが、原文を尊重してそのままの形にて掲載しております。あらかじめご注意ください。
第1章 基隆・台北編
(1)
こっこうしかいにかがやきて、とうあのそらにはをなせる
國󠄀光󠄀四󠄀海󠄀に輝󠄀きて、東󠄀亞󠄀の空󠄁に霸󠄀を成󠄁せる
わがひのもとのしんりょうど、たいわんとうをさぐりみん
我󠄀が日󠄀の本󠄀の新󠄀領󠄀土󠄀、臺󠄀灣󠄀島󠄀を探󠄀り見󠄀む
現代語訳
日本の光は四方の海に輝いて、東アジアの空に覇を成している
我らが日本の新領土、台湾島を探ってみよう
(2)
なんぼくながさいっぴゃくり、めぐりはにひゃくくじゅうより
南󠄀北󠄀長󠄀さ一󠄀百󠄀里󠄀、巡󠄁りは二󠄀百󠄀九󠄀十󠄀餘󠄀里󠄀
こじまあわせてそのひろさ、きゅうしゅうとうとほぼひとし
小󠄀島󠄀倂󠄀せて其󠄀の廣󠄀さ、九󠄀州󠄀島󠄀と略󠄀等󠄀し
現代語訳
南北の長さは100里(約400km)、一周の長さは約290里(約1,140km)
小島もあわせてその広さは、九州島とほぼ等しい
(3)
やまにきんぎん、うみにしお、せいちゃ、せいとう、かじつるい
山󠄀に金󠄀銀󠄀、海󠄀に鹽󠄀、製󠄀茶󠄀、製󠄀糖󠄀、果󠄀實󠄀類󠄀
みずたにいねはにどみのる、げにていこくのむじんぞう
水󠄀田󠄀に稻󠄀は二󠄀度󠄀實󠄀る、實󠄀に帝󠄁國󠄀の無󠄀盡󠄀藏󠄀
現代語訳
山には金銀、海には塩、そして製茶、製糖、果実類
水田の稲は一年に二度実る、まさに帝国の無尽蔵
(4)
きいるんこうのあさぼらけ、のぼるあさひのてりそいて
基󠄀隆󠄀港󠄁の朝󠄁朗󠄀け、登󠄀る朝󠄁日󠄀の照󠄀添󠄀ひて
かがやきわたるそのながめ、フォルモサのなもただならず
輝󠄀き渡󠄀る其󠄀の眺󠄀め、フオルモサの名󠄀も徒󠄀不󠄀成󠄁
現代語訳
基隆港の夜明け頃、登る朝日が港を照らしている
輝きわたるその眺め、まさにフォルモサ(台湾の別名)の名に相応しい
(5)
さいほくもんのさやくにて、ぼこくにわたるゆいいつの
最󠄀北󠄀門󠄀の鎖󠄁鑰󠄀にて、母󠄀國󠄀に渡󠄀る唯󠄀一󠄀の
ようしんなればちょうせきに、でふねいりふねたえまなし
要󠄁津󠄀爲󠄀れば朝󠄁夕󠄀に、出󠄀船󠄂入󠄀船󠄂絕󠄀間󠄀無󠄀し
現代語訳
(基隆港は)最北にある防衛の要所であり、内地に渡る唯一である
重要な港であるため朝に夕に、絶え間なく船が出入りしている
(6)
いざやせいぶをめぐらんと、きてきいっせいすすみゆく
いざや西󠄀部󠄀を巡󠄁らむと、汽󠄀笛󠄀一󠄀聲󠄀進󠄁み行󠄀く
はっとしちとのつぎはごと、すいへんきゃくのしょうしがい
八󠄀堵󠄁、七󠄀堵󠄁の次󠄁は五󠄀堵󠄁、水󠄀返󠄂脚󠄀の小󠄀市󠄀街󠄀
現代語訳
いざ台湾島の西部を巡ろうと、汽笛一声進んでゆく
八堵、七堵の次は五堵、水返脚(現・汐止)には小さな街がある
(7)
ふきんのやまにせきたんの、おおくいづるをかたりつつ
附󠄀近󠄁の山󠄀に石󠄀炭󠄁の、多󠄀く出󠄀づるを語󠄀りつつ
なんこう、しゃっこう、たちまちに、はやたいほくにつきにけり
南󠄀港󠄁、錫󠄀口󠄀、忽󠄀ちに、早󠄀臺󠄀北󠄀に著󠄀きにけり
現代語訳
近くの山では石炭が、多く出ることを語りながら、
南港、錫口(現・松山)を過ぎるとたちまちに、早くも台北に到着したのだ
(8)
しめんはやまにかこまれて、ちせいきょうとにさもにたり
四󠄀面󠄀は山󠄀に圍󠄁まれて、地󠄀勢󠄀京󠄀都󠄀に然󠄀も似󠄀たり
おのづからなるじょうへきは、げにまんせいのかためなり
自󠄀から成󠄁る城󠄀壁󠄀は、實󠄀に萬󠄀世󠄀の堅󠄀なり
現代語訳
(台北は)四方を山に囲まれて、その地形はあたかも京都のようだ
自然が作り出した城壁は、まさに万世の要塞である
(9)
きみがみいつにたかさごの、うらわのかぜもおさまりて
君󠄀が御󠄀稜󠄀威󠄀に高󠄀砂󠄀の、浦󠄀囘󠄀の風󠄀も收󠄀りて
ここにひらけしそうとくふ、ぶんぶのきかんそなわれり
此󠄀處󠄀に開󠄀けし總󠄀督󠄀府󠄀、文󠄁武󠄀の機󠄀關󠄀備󠄀れり
現代語訳
天皇陛下の光が高砂(台湾の別名)の、海岸に吹き荒ぶ風を収めて
ここに設けられた総督府、そこには文武の機関が備わっている
(10)
しがいのきぼはこうだいに、どうろへいたんとのごとく
市󠄀街󠄀の規󠄀模󠄀は宏󠄀大󠄀に、道󠄁路󠄀平󠄁坦󠄀砥󠄀の如󠄀く
げすいこうじにいたるまで、みずももらさぬたくみなり
下󠄀水󠄀工󠄀事󠄀に至󠄀る迄󠄁、水󠄀も漏󠄀らさぬ巧󠄀なり
現代語訳
(台北)市街の規模は広大であり、道路は砥石のように平坦である
下水工事に至るまで、水も漏らさないほどの完璧なものである
(11)
いくひゃくねんごのぼうちょうを、かねてはかりてさだめたる
幾󠄁百󠄀年󠄀後󠄀の膨󠄀張󠄀を、豫󠄀て測󠄀りて定󠄀めたる
しくかいせいのおおしさよ、おもいやるだにたのもしや
市󠄀區󠄁改󠄀正󠄀の雄󠄀々しさよ、想󠄀ひ遣󠄁るだに賴󠄀しや
現代語訳
数百年後の(台北市街の)膨張を、あらかじめ見越して定めたという
都市改革の雄々しさを思うと、とても頼もしいものである
(12)
しせんにのりてまるやまの、たいわんじんじゃおがみつつ
支󠄀線󠄀に乘󠄀りて圓󠄀山󠄀の、臺󠄀灣󠄀神󠄀社󠄁拜󠄀みつつ
きいるんがわをうちわたり、むかしをしのぶけんたんじ
基󠄀隆󠄀川󠄀を打󠄀渡󠄀り、昔󠄀を偲󠄀ぶ劍󠄀潭󠄀寺󠄀
現代語訳
支線(現・台北MRT淡水信義線)に乗って圓山の、台湾神社(現・圓山大飯店)を拝みつつ
基隆川を渡ってゆくと、昔をしのぶ劍潭寺が建っている
(13)
つとにがくしゃのえんそうと、となえられたるしりんには
夙󠄀に學󠄀者󠄀の淵󠄀藪󠄀と、稱󠄁へられたる士󠄀林󠄀には
そうなんろくしのひせきあり、しざんがんとう、かをとどむ
遭󠄁難󠄀六󠄀氏󠄀の碑󠄀石󠄀在󠄀り、芝󠄀山󠄀嚴󠄀頭󠄀、香󠄀を留󠄀む
現代語訳
以前から学者の集まるところと、言われている士林には
遭難六氏(抗日運動の犠牲となった6名の教師のこと)の記念碑が建っており、芝山嚴(現・芝山)の辺りにその印象を残している
(14)
いおうをいだすほくとうは、おとにきこゆるおんせんば
硫󠄀黃󠄀を出󠄀す北󠄀投󠄀は、音󠄀に聞󠄀こゆる溫󠄀泉󠄀塲
ゆあみするひと、あそぶひと、つねにたえずときくぞかし
湯󠄀浴󠄀みする人󠄀、遊󠄁ぶ人󠄀、常󠄀に絕󠄀えずと聞󠄀くぞかし
現代語訳
硫黄が出ている北投は、噂に聞く温泉場
温泉に入る人、遊ぶ人、常に絶えないと聞くのだ
(15)
ひだりにたかきはだいとんざん、みぎにひくきはしゃぼうざん
左󠄀に高󠄀きは大󠄀屯󠄀山󠄀、右󠄀に低󠄀きは紗󠄀帽󠄁山󠄀
むらがるやまのそのおくに、ひいでてみゆるしちせいざん
群󠄀がる山󠄀の其󠄀の奧󠄀に、秀󠄀でて見󠄀ゆる七󠄀星󠄀山󠄀
現代語訳
左の高い山は大屯山、右の低い山は紗帽山
群がる山もその奥に、大きく見える七星山
(16)
かんとうすぎてかわぎしに、そいつつゆけばたんすいこう
江󠄀頭󠄀過󠄁ぎて川󠄀岸󠄀に、沿󠄀ひつゝ行󠄀けば淡󠄀水󠄀港󠄁
かはんのおかにいかめしき、たてものおおくそびえたり
河󠄀畔󠄁の丘󠄀に嚴󠄀しき、建󠄁物󠄀多󠄀く聳󠄀えたり
現代語訳
江頭(現・關渡)を過ぎて川岸に、沿いつつ行けば淡水港
川辺の丘には荘厳な、建物が多くそびえている
(17)
おくじょうたかくひるがえる、どうめいこくのはたじるし
屋󠄀上󠄀高󠄀く飜󠄀る、同󠄀盟󠄀國󠄀の旗󠄀印󠄀
とわぬさきにもしられたり、だいえいこくのりょうじかん
問󠄀はぬ先󠄀にも知󠄀られたり、大󠄀英󠄀國󠄀の領󠄀事󠄀館󠄀
現代語訳
屋根の上に高く翻る、同盟国の旗印
聞くほどでもないほど有名な、英国の領事館
(18)
さんびゃくねんのそのむかし、ばんりのなみをしのぎきて
三󠄀百󠄀年󠄀の其󠄀の昔󠄀、萬󠄀里󠄀の波󠄀を凌󠄀ぎ來󠄀て
ぶいをふるいしイスパニヤ、サンチャゴじょうここにたつ
武󠄀威󠄀を振󠄀ひしイスパニヤ、サンチアゴ城󠄀此󠄀處󠄀に建󠄁つ
現代語訳
三百年のその昔、遠くから波に乗りやってきて、
武力を振るったスペイン、サンチャゴ城(現・紅毛城)はここに建っている
(19)
のちにオランダきてりしが、ていしかわりてこれによる
後󠄀にオランダ來󠄀てりしが、鄭󠄁氏󠄀替󠄀りて是󠄀に據󠄀る
えいこはうつるよのならい、えいゆうのあといまいづこ
榮󠄀枯󠄀は移󠄀る世󠄀の習󠄁ひ、英󠄀雄󠄀の蹟󠄀今󠄀何󠄀處󠄀
現代語訳
後にオランダが来たものの、鄭成功がオランダを倒してここを統治した
盛者必衰であることが世の定め、英雄の跡は今どこにあるのだろう
(20)
ろうにのぼりてみわたせば、じくろつらねてうちつどう
樓󠄀に登󠄀りて見󠄀渡󠄀せば、舳󠄀艫󠄀連󠄀ねて打󠄀集󠄀ふ
もろこしぶねのかずしらず、かんのんざんかえのごとし
唐󠄁船󠄂の數󠄀知󠄀らず、觀󠄀音󠄀山󠄀下󠄀、畫󠄀の如󠄀し
現代語訳
建物に登って辺りを見渡すと、船が並んで集まっている
中国の船が何隻あるかもわからず、觀音山の下はまるで絵画のようである
(21)
ここのみなとをふなでして、かいろわずかににひゃくより
此󠄀處󠄀の港󠄁を船󠄂出󠄀して、海󠄀路󠄀僅󠄁に二󠄀百󠄀餘󠄀浬󠄀
そのひのうちにたいがんの、アモイのみなとにつかるべし
其󠄀日󠄀の中󠄀に對󠄀岸󠄀の、廈󠄀門󠄀の港󠄁に著󠄀るべし
現代語訳
ここの港を船出して、海路わずかに約二百海里(約370km)
その日のうちに対岸の、廈門(アモイ)の港に到着する
(22)
ふたたびかえりてほんせんに、うつればたちまちまんかえき
再󠄁び返󠄂りて本󠄀線󠄀に、移󠄀れば忽󠄀ち艋舺驛󠄀
しんてんがわのてっきょうも、またたくひまにうちわたる
新󠄀店󠄀川󠄀の鐵󠄀橋󠄀も、瞬󠄁く暇󠄀に打󠄀渡󠄀る
現代語訳
再び(鉄道)本線に戻り、移動するとたちまち艋舺駅(現・萬華駅)
新店川の鉄橋も、瞬く間に渡ってしまう
(23)
ふごうりんしのていたくの、いらかつらねてかまえたる
富󠄀豪󠄀林󠄀氏󠄀の邸󠄀宅󠄀の、甍󠄀連󠄀ねて構󠄀へたる
はんきょうこゆればじゅりんなり、さんしきゃくへておうかせき
枋󠄀橋󠄀越󠄀ゆれば樹󠄀林󠄀なり、山󠄀仔󠄀脚󠄀經󠄀て鶯󠄀歌󠄀石󠄀
現代語訳
富豪林氏の邸宅(現・林本源園邸)は、瓦屋根を連ねて構えられている
枋橋(現・板橋)を超えれば樹林である、山仔脚(現・山佳)を経て鶯歌石(現・鶯歌)
(24)
とりのかたちによくにたる、きょせきはたてりさんぷくに
鳥󠄀の形󠄀に能󠄀く似󠄀たる、巨󠄁石󠄀は立󠄀てり山󠄀腹󠄀に
ていぐんほうをうちしとき、かしらかけぬといいつとう
鄭󠄁軍󠄀砲󠄁を擊󠄀ちし時󠄀、頭󠄀缺󠄀ぬと言󠄀ひ傳󠄀ふ
現代語訳
鳥の形によく似ている、巨石(鶯歌石)が山腹に立っている
鄭成功の軍が大砲を撃ったとき、その頭が欠けたと言い伝えられている
(25)
さんかくゆうはこのおくへ、いちりあまりのしょうしがい
三󠄀角󠄁湧󠄀は此󠄀の奧󠄀へ、一󠄀里󠄀餘󠄀りの小󠄀市󠄀街󠄀
せいのうじぎょうみんひとは、さらにやまじをたどるべし
製󠄀腦󠄀事󠄀業󠄀見󠄀む人󠄀は、更󠄁に山󠄀路󠄀を辿󠄁る可󠄀し
現代語訳
三角湧(現・三峽)はこの奥へ、一里(約4km)ほどの小さな街
樟脳の生産事業を見ようとする者は、更に山道を進むとよい
第2章 桃園編
(26)
はるとうえんのらくきょうに、あそぶもうれし、あきはまた
春󠄀桃󠄀園󠄀の樂󠄀鄕󠄀に、遊󠄁ぶも嬉󠄀し、秋󠄀は亦󠄀
だいこかんなるやまおくに、きがんをみるもおもしろし
大󠄀嵙崁爲󠄀る山󠄀奧󠄀に、奇󠄀巖󠄀を見󠄀るも面󠄀白󠄀し
現代語訳
春、桃園の楽園に遊ぶのも楽しい、秋もまた(楽しい)
大嵙崁(現・大溪)という山奥に、奇岩を見に行くのもまた面白い
(27)
ばんかいちかくふみいれば、りょうがんけわしきたにがわに
蕃󠄀界󠄀近󠄁く踏󠄀み入󠄀れば、兩󠄀岸󠄀險󠄀しき谷󠄀川󠄀に
とうにてつくれるつりばしの、あやうくかかるところあり
藤󠄁にて造󠄁れる吊󠄀橋󠄀の、危󠄁ふく架󠄀る所󠄁在󠄀り
現代語訳
原住民の土地の近くに踏み入ると、両岸が険しい谷川に
藤で造られた吊橋が、危なく架かっている所がある
(28)
ほくぶしょざんのせいばんを、ふせぐためとてようしょには
北󠄀部󠄀諸󠄀山󠄀の生󠄀蕃󠄀を、防󠄀ぐ爲󠄀とて要󠄁所󠄁には
てつじょうもうをはりわたし、あいゆうせんをもうけたり
鐵󠄀條󠄀網󠄁を張󠄀り渡󠄀し、隘󠄀勇󠄀線󠄀を設󠄀けたり
現代語訳
北部の山々に暮らす原住民を、街から遠ざけるために要所には
鉄条網を張り、隘勇線(原住民の土地の境界線)が設けられている
(29)
かんしきゃくをばあとにして、ちゅうれきがいをすぎゆけば
崁仔󠄀脚󠄀をば後󠄀にして、中󠄀壢街󠄀を過󠄁ぎ行󠄀けば
しめんのはたけはみなちゃのき、あんぺいちんのせいちゃじょう
四󠄀面󠄀の畑󠄀は皆󠄀茶󠄀の樹󠄀、安󠄀平󠄁鎭󠄀の製󠄀茶󠄀塲
現代語訳
崁仔脚(現・內壢)を後にして、中壢街を過ぎ行けば
四面の畑にはどこも茶の木が生えている、安平鎭(現・平鎮)の製茶工場
(30)
ほんとうとくさんうーろんちゃ、なおもこうちゃのじっきょうを
本󠄀島󠄀特󠄀產󠄀烏󠄀龍󠄂茶󠄀、尙󠄀も紅󠄀茶󠄀の實󠄀況󠄀を
しらんとおもうひとあらば、かならずくぐれこのもんを
知󠄀らむと想󠄀ふ人󠄀有󠄁らば、必󠄀ず潛󠄂れ此󠄀の門󠄀を
現代語訳
本島特産の烏龍茶、更に紅茶の現状を
知りたいと思う人がいるのなら、必ずくぐれこの門を
(31)
ようばいれきよりたいここう、こうもうでんをすぎゆけば
楊󠄀梅󠄀壢より大󠄀湖󠄀口󠄀、紅󠄀毛󠄀田󠄀を過󠄁ぎ行󠄀けば
はやつきにけりしんちくに、ここはむかしのちくざんほ
早󠄀著󠄀きにけり新󠄀竹󠄀に、此󠄀處󠄀は昔󠄀の竹󠄀塹󠄀埔󠄀
現代語訳
楊梅壢(現・楊梅)より大湖口(現・湖口)、紅毛田(現・新豐)を過ぎゆけば
早くも新竹に到着した、ここは昔の竹塹埔(新竹市一帯の旧名)
第3章 新竹編
(32)
しんのようせいがんねんに、たんすいちょうをおかれけり
淸󠄀の雍󠄀正󠄀元󠄀年󠄀に、淡󠄀水󠄀廳󠄀を置󠄀かれけり
じょうせきのあとなおのこり、きゅうさつこびょうまたそんす
城󠄀壁󠄀の蹟󠄀猶󠄁殘󠄀り、舊󠄀刹󠄀古󠄀廟󠄁亦󠄀存󠄀す
現代語訳
清朝の雍正元年に、淡水庁(清朝の行政区域)を置いたという
城壁の跡は今でも残っており、大昔の古寺も現存している
(33)
しがいのせいほうやくはんり、せんぴつざんのいただきに
市󠄀街󠄀の西󠄀方󠄀約󠄁半󠄁里󠄀、尖󠄀筆󠄀山󠄀の頂󠄀に
きたしらかわのきゅうでんか、ごろえいありしいせきあり
北󠄀白󠄀川󠄀の宮󠄀殿󠄀下󠄀、御󠄀露󠄀營󠄀在󠄀りし遺󠄁蹟󠄀在󠄀り
現代語訳
市街の約半里(約0.5km)西側にある、尖筆山の頂に
北白川宮能久親王が、野営なされたという遺跡がある
(34)
しんぽはみかんのほんばにて、ほくほにしいたけおおくいづ
新󠄀埔󠄀は蜜󠄀柑󠄀の本󠄀塲にて、北󠄀埔󠄀に椎󠄀茸󠄀多󠄀く出󠄀づ
こうざん、ちゅうこうすぎぬれば、つぎはぞうきょう、こうろうよ
香󠄀山󠄀、中󠄀港󠄁過󠄁ぎぬれば、次󠄁は造󠄁橋󠄀、後󠄀壟󠄀よ
現代語訳
新埔はミカンの本場であり、北埔ではシイタケが多く採れる
香山、中港(現・竹南)を過ぎたなら、次は造橋、後壟(現・後龍)である
第4章 苗栗編
(35)
こうろうけいのてっきょうを、わたればここはびょうりつぞ
後󠄀壟󠄀溪󠄀の鐵󠄀橋󠄀を、渡󠄀れば此󠄀處󠄀は苗󠄀栗󠄀ぞ
せきゆのさんち、しゅっこうこう、これよりよりのおくにあり
石󠄀油󠄀の產󠄀地󠄀、出󠄀礦󠄀坑󠄀、此󠄀より四󠄀里󠄀の奧󠄀に在󠄀り
現代語訳
後壟溪(現・後龍溪)の鉄橋を、渡ればここは苗栗である
石油の産地である出礦坑(現・台灣油礦陳列館)は、これより四里(約16km)の奥にある
第5章 台中・南投編
(36)
どらわん、さんさほ、こうりしょう、こめのさんちとなもたかき
銅󠄀鑼󠄀灣󠄀、三󠄀叉󠄀河󠄀、后󠄀里󠄀庄󠄀、米󠄀の產󠄀地󠄀と名󠄀も高󠄀き
ころとんえきのきんぽうに、せいまがいしゃをみてゆかん
葫󠄀蘆󠄀墩驛󠄀の近󠄁傍󠄀に、製󠄀麻󠄁會󠄀社󠄁を見󠄀て行󠄀かむ
現代語訳
銅鑼灣(現・銅鑼)、三叉河(現・三義)、后里庄(現・后里)、米の産地と名も高い
葫蘆墩駅(現・豐原駅)の近くに、製麻会社を見て行こう
(37)
ここまですうりのそのあいだ、ちせいけんそのそのうえに
此󠄀處󠄀迄󠄁數󠄀里󠄀の其󠄀の間󠄀、地󠄀勢󠄀嶮󠄀岨󠄀の其󠄀の上󠄀に
たいあん、たいこう、にけいあり、はこねのトンネルおもいやる
大󠄀安󠄀、大󠄀甲󠄀、二󠄀溪󠄀在󠄀り、箱󠄀根󠄀のトンネル想󠄀ひ遣󠄁る
現代語訳
ここまで数里のその間、険しい地形のその上に
大安、大甲と二つの川があり、箱根のトンネルが思い浮かぶ
(38)
りんとうあみてつくるという、たんすいぼうのさんちなる
林󠄀投󠄀編󠄁みて作󠄀ると云󠄀ふ、淡󠄀水󠄀帽󠄁の產󠄀地󠄀爲󠄀る
たいこう、つうしょう、えんりなど、うみべにちかきとちにあり
大󠄀甲󠄀、通󠄁宵󠄁、苑󠄀裡󠄀等󠄀、海󠄀邊󠄁に近󠄁き土󠄀地󠄀に在󠄀り
現代語訳
林投(植物の一種)を編んで作るという、淡水帽の産地である
大甲、通宵、苑裡などは、海辺に近い土地にある
(39)
たんしけんへてそのつぎは、ちゅうぶいちなるたいちゅうよ
潭󠄀子󠄀墘經󠄀て其󠄀の次󠄁は、中󠄀部󠄀一󠄀爲󠄀る臺󠄀中󠄀よ
しんちょうかつてこのとちに、たいわんふをばおきたりき
淸󠄀朝󠄁嘗󠄀て此󠄀の土󠄀地󠄀に、臺󠄀灣󠄀府󠄀をば置󠄀きたりき
現代語訳
潭子墘(現・潭子)を経てその次は、中部一である台中だ
清朝はかつてこの土地に、臺灣府(清朝の行政区域)を置いたのだ
(40)
めいじよんじゅういちねんに、はじめてなりしてつどうの
明󠄁治󠄀四󠄀十󠄀一󠄀年󠄀に、初󠄀めて成󠄁りし鐵󠄀道󠄁の
ぜんつうしきをあげたりし、ここのこうえんながめよし
全󠄁通󠄁式󠄀を擧󠄀げたりし、此󠄀處󠄀の公󠄁園󠄀眺󠄀め佳󠄀し
現代語訳
明治41年に、初めて完成した鉄道の
全通式を挙げたという、ここの公園(現・台中公園)は眺めがよい
(41)
とうきをいだすなんとうへ、けいべんてつどうしかれたり
陶󠄀器󠄀を出󠄀す南󠄀投󠄀へ、輕󠄀便󠄁鐵󠄀道󠄁敷󠄁かれたり
ほんとうむにのべってんち、ほりしゃはなおもおくときく
本󠄀島󠄀無󠄀二󠄀の別󠄀天󠄀地󠄀、埔󠄀里󠄀社󠄁は尙󠄀も奧󠄀と聞󠄀く
現代語訳
陶器を生産している南投へは、軽便鉄道が敷かれている
本島無二の別天地である、埔里社(現・埔里)は更に奥だと言われている
(42)
さすがにたけきむしゃばんも、かくしゅのやいばうちすてて
流󠄀石󠄀に猛󠄀き霧󠄀社󠄁蕃󠄀も、刈󠄀首󠄀の刃󠄁打󠄀捨󠄁てて
あつきめぐみをしたいくる、ばんさんぶつのこうかんじょ
厚󠄀き惠󠄀みを慕󠄀ひ來󠄀る、蕃󠄀產󠄀物󠄀の交󠄁換󠄀所󠄁
現代語訳
流石に強い霧社の原住民も、人の首を刈るための刃物を捨て去って
厚い恵みを慕いやって来る、蕃産物(原住民集落にて生産した品物)の交換所
(43)
じつげつたんのしょうけいは、ほうらいざんもよそならず
日󠄀月󠄁潭󠄀の勝󠄁景󠄀は、蓬󠄁萊󠄀山󠄀も餘󠄀所󠄁不󠄀成󠄁
みどりのかげにはとりうたい、るりのみずにはうおおどる
綠󠄀の蔭󠄀には鳥󠄀歌󠄀ひ、瑠󠄀璃󠄀の水󠄀には魚󠄀躍󠄁る
現代語訳
日月潭の勝景は、蓬莱山(仙人が住んでいるという伝説の山)にも劣らない
緑の陰には鳥が歌い、瑠璃色の水には魚が躍る
(44)
うじつすぐればたいとなり、こめのしゅうさんおびただし
烏󠄀日󠄀過󠄁ぐれば大󠄀肚󠄀爲󠄀り、米󠄀の集󠄀散󠄀夥󠄀し
ここにかわありたいとけい、みずにあそぶはすいぎゅうよ
此󠄀處󠄀に河󠄀在󠄀り大󠄀肚󠄀溪󠄀、水󠄀に遊󠄁ぶは水󠄀牛󠄀よ
現代語訳
烏日を過ぎれば大肚である、米の集荷がおびただしい
ここにある川は大肚溪、水の中では水牛が遊んでいる
第6章 彰化編
(45)
りゅうしゃにむかうとうろうが、おのをみじんにくだかれし
龍󠄂車󠄀に向󠄀ふ蟷󠄀螂󠄀が、斧󠄀を微󠄀塵󠄀に碎󠄀れし
しょうかのひがし、はっけさん、ちゅうたいへいやひとながめ
彰󠄀化󠄁の東󠄀、八󠄀卦󠄀山󠄀、中󠄀臺󠄀平󠄁野󠄀一󠄀眺󠄀め
現代語訳
列車に向かってくるカマキリが、その斧を微塵に砕かれた
彰化の東には八卦山、中台平野をひと眺め
(46)
かとうきゃくのそのつぎに、ばなな、ざぼんのさんちなる
茄󠄀苳󠄀脚󠄀の其󠄀の次󠄁に、甘󠄀蕉󠄀、朱󠄀欒󠄀の產󠄀地󠄀爲󠄀る
いんりんすぐればしゃとうなり、でんちゅうおうへてにはちすい
員󠄀林󠄀過󠄁ぐれば社󠄁頭󠄀爲󠄀り、田󠄀中󠄀央󠄀經󠄀て二󠄀八󠄀水󠄀
現代語訳
茄苳脚(現・花壇)のその次に、バナナ、ザボン(みかんの一種)の産地である
員林を過ぎれば社頭である、田中央(現・田中)を経て二八水(現・二水)
(47)
ぜんとういちのたいがとて、おとにきこえしだくすいけい
全󠄁島󠄀一󠄀の大󠄀河󠄀とて、音󠄀に聞󠄀こへし濁󠄀水󠄀溪󠄀
だいういたればたちまちに、へいやへんじてうみとなる
大󠄀雨󠄀至󠄀れば忽󠄀ちに、平󠄁野󠄀變󠄀じて海󠄀と成󠄁る
現代語訳
全島一の大河として、噂に聞く濁水溪
大雨が降ればたちまちに、平野が海に変化する
(48)
りんないすぎてしゃそうより、かすかにみゆるにいたかの
林󠄀內󠄀過󠄁ぎて車󠄀窗󠄀より、微󠄀かに見󠄀ゆる新󠄀高󠄀の
やまのたかきはにほんいち、めいじのみかど、なをたまう
山󠄀の高󠄀きは日󠄀本󠄀一󠄀、明󠄁治󠄀の帝󠄁、名󠄀を賜󠄀ふ
現代語訳
林內を過ぎると車窓より、微かに見える新高山(現・玉山)の
山の高さは日本一、(新高山の)名は明治天皇から賜ったものである
第7章 雲林編
(49)
うんりんいまはとろくがい、どひのさわぎにおおかたは
雲󠄀林󠄀、今󠄀は斗󠄀六󠄀街󠄀、土󠄀匪󠄀の騷󠄀ぎに大󠄀方󠄀は
へいかのさいにかかりにき、たりむのつぎはたいほりん
兵󠄀火󠄀の災󠄀に罹󠄀りにき、他󠄀里󠄀霧󠄀の次󠄁は大󠄀莆林󠄀
現代語訳
雲林、今は斗六街(現・斗六)、抗日勢力の騒ぎにより多くの者が
戦乱に巻き込まれた、他里霧(現・斗南)の次は大莆林(現・大林)
(50)
たみょうのせいほうさんりなる、ほっこうがいのまそきゅうは
打󠄀貓の西󠄀方󠄀三󠄀里󠄀爲󠄀る、北󠄀港󠄁街󠄀の媽󠄀祖󠄀宮󠄀は
よものしんこうあつきこと、ほんとういちときこえたり
四󠄀方󠄀の信󠄀仰󠄀厚󠄀き事󠄀、本󠄀島󠄀一󠄀と聞󠄀こえたり
現代語訳
打貓(現・民雄)の西側三里(約12km)にある、北港街(現・北港)の媽祖宮(現・北港朝天宮)は
四方からの信仰が厚いこと、本島一と言われている
第8章 嘉義編
(51)
りんそうぶんのそうらんに、ときのみかどがじゅうみんの
林󠄀爽󠄀文󠄁の騷󠄀亂󠄀に、時󠄀の帝󠄁が住󠄁民󠄀の
ぎゆうよみしてつけられし、かぎのほまれはひにのこる
義󠄀勇󠄀嘉󠄀みして稱󠄁けられし、嘉󠄀義󠄀の譽󠄀は碑󠄀に殘󠄀る
現代語訳
林爽文の騒乱(清朝時代の騒乱)のときに、当時の清朝皇帝(乾隆帝)が住民の
義勇を褒めて名付けたる、嘉義の誉は石碑に残っている
(52)
ここにいたらばのうかいの、びょうほにあしをはこぶべし
此󠄀處󠄀に至󠄀らば農󠄀會󠄀の、苗󠄀圃󠄀に足󠄀を運󠄁ぶ可󠄀し
おがわめぐれるおかのうえ、みわたすかぎりびんろうじ
小󠄀河󠄀廻󠄀れる丘󠄀の上󠄀、見󠄀渡󠄀す限󠄀り檳󠄀榔󠄁子󠄀
現代語訳
ここに至れば農協の、田畑に足を運ぶのがよい
小川が巡る丘の上には、見渡すかぎりの檳榔(植物の一種)がある
(53)
だいしんりんのありさんは、これよりすうりおくにあり
大󠄀森󠄀林󠄀の阿󠄀里󠄀山󠄀は、此󠄀より數󠄀里󠄀の奧󠄀に在󠄀り
えだをまじうるきぎのかげ、ひるなおくらくものすごし
枝󠄀を交󠄁ふる木󠄀々の蔭󠄀、晝󠄀猶󠄁暗󠄀く物󠄀凄󠄀し
現代語訳
大森林の阿里山は、ここより数里の奥にある
枝を交える木々の陰は、昼でも暗く驚くべきものである
(54)
てつどうせんろのみぎがわに、たつるめじるしみおとすな
鐵󠄀道󠄁線󠄀路󠄀の右󠄀側󠄀に、立󠄀つる目󠄀標󠄀見󠄀落󠄀すな
きたかいきせんこのあたり、はやねったいのきゃくとなる
北󠄀囘󠄀歸󠄀線󠄀此󠄀の邊󠄁り、早󠄀熱󠄀帶󠄀の客󠄀と成󠄁る
現代語訳
鉄道線路の右側に、立つ目印を見落とすな
北回帰線はこのあたり、早くも熱帯の客となる
(55)
これよりなんぶおしなべて、かんしょのはたけうちつづき
此󠄀より南󠄀部󠄀押󠄀し竝󠄀べて、甘󠄀蔗󠄀の畑󠄀の打󠄀續󠄀き
せいとうがいしゃそこここに、えんとつたかくきそいたつ
製󠄀糖󠄀會󠄀社󠄁其󠄀處󠄀此󠄀處󠄀に、煙󠄁突󠄀高󠄀く競󠄀ひ立󠄀つ
現代語訳
ここから南部は押し並べて、甘蔗(サトウキビ)の畑が続いている
製糖会社はそこら中に、煙突高く競い立っている
第9章 台南編
(56)
すいくつとうよりこうへきりょう、しんえいしょうのせいほうに
水󠄀崛󠄀頭󠄀より後󠄀壁󠄀寮󠄀、新󠄀營󠄀庄󠄀の西󠄀方󠄀に
えんすいこうのしがいあり、ほていしよりはえんさんす
鹽󠄀水󠄀港󠄁の市󠄀街󠄀在󠄀り、布󠄀袋󠄀嘴󠄀寄󠄀りは鹽󠄀產󠄀す
現代語訳
水崛頭(現・水上)より後壁寮(現・後壁)、新營庄(現・新營)の西方に
鹽水港(現・鹽水)の市街がある、布袋嘴(現・布袋)の近くでは塩を生産している
(57)
りんほうえいへてばんしでん、わんりをすぎてしんしがい
林󠄀鳳󠄀營󠄀經󠄀て蕃󠄀子󠄀田󠄀、灣󠄀裡󠄀を過󠄁ぎて新󠄀市󠄀街󠄀
たいもくこうはこのひがし、とうぎょうしけんじょもうけらる
大󠄀目󠄀降󠄀は此󠄀の東󠄀、糖󠄀業󠄀試󠄀驗󠄀所󠄁設󠄀けらる
現代語訳
林鳳營を経て蕃子田、灣裡(現・善化)を過ぎて新市街(現・新市)
大目降(現・新化)はこの東、糖業試験所が設けられている
(58)
なんぶのみやこ、たいなんは、ほんとうじゅうにふるくより
南󠄀部󠄀の都󠄀、臺󠄀南󠄀は、本󠄀島󠄀中󠄀に古󠄀く由󠄀り
ひらけしちとてひとおおく、めいしょきゅうせきまたおおし
開󠄀けし地󠄀とて人󠄀多󠄀く、名󠄀所󠄁舊󠄀蹟󠄀亦󠄀多󠄀し
現代語訳
南部の都である台南は、本島中に古くより
開いた場所として人が多く、名所や旧跡もまた多い
(59)
りくぐんえいじゅびょういんは、オランダじんのきずきたる
陸󠄀軍󠄀衞󠄀戍󠄀病󠄁院󠄀は、オランダ人󠄀の築󠄀きたる
せっかんろうのありしあと、さんそうろうかくそびえたり
赤󠄀崁樓󠄀の在󠄀りし蹟󠄀、三󠄀層󠄀樓󠄀閣󠄀聳󠄀えたり
現代語訳
陸軍衛戍病院は、オランダ人が築いたという
赤崁樓のありし跡、三階建の建物がそびえている
(60)
ていせいこうをまつりたる、えんぺいおうのやしろあり
鄭󠄁成󠄁功󠄀を祀󠄀りたる、延󠄂平󠄁王󠄀の祠󠄀在󠄀り
りょうたいいごにあらためて、かいざんじんじゃとしょうせらる
領󠄀臺󠄀以󠄀後󠄀に改󠄀めて、開󠄀山󠄀神󠄀社󠄁と稱󠄁せらる
現代語訳
鄭成功を祀っている、延平王の祠(現・延平郡王祠)がある
(ここは)台湾が日本となった後に改めて、開山神社と呼ばれるようになった
(61)
ぎれつそうれつははとじの、やまとだましいうけつぎて
義󠄀烈󠄀壯󠄀烈󠄀母󠄀刀󠄀自󠄀の、大󠄀和󠄀魂󠄀受󠄀け繼󠄀ぎて
しゃしょくのためにつくしたる、きみがほまれはちよくちず
社󠄁稷󠄀の爲󠄀に竭したる、君󠄀が譽󠄀は千󠄀代󠄀朽󠄀ちず
現代語訳
義烈壮烈である母の、大和魂を受け継いで
国のために尽くしたという、君(鄭成功)の誉はいつまでも朽ちないだろう
(62)
かいとさんじょう、ごひのはか、ねいせいおうのきさきたち
魁󠄀斗󠄀山󠄀上󠄀、五󠄀妃󠄀の墓󠄀、寧󠄀靖󠄀王󠄀の妃󠄀等󠄀
みさおをまもりてこのとちに、はてぬときくもあわれなり
操󠄀を守󠄀りて此󠄀の土󠄀地󠄀に、果󠄀てぬと聞󠄀くも憐󠄀れ爲󠄀り
現代語訳
魁斗山(現・桂子山)の上にある五妃の墓、寧靖王の妃たち
貞操を守ってこの土地に、果てたと聞くのはとても悲しいことである
(63)
ぜんたいしゅがくとしるしたる、たいせいでんのたてものは
全󠄁臺󠄀首󠄀學󠄀と記󠄀したる、大󠄀成󠄁殿󠄀の建󠄁物󠄀は
こうがっこうにあてられて、いまなおいごのこえをきく
公󠄁學󠄀校󠄁に充󠄀てられて、今󠄀猶󠄁咿唔の聲󠄀を聞󠄀く
現代語訳
「全臺首學」と記されている、大成殿(現・臺南孔廟)の建物は
公学校として使われており、今でも学生の勉強する声が聞こえてくる
(64)
せんしてここにたいわんの、おうとなのりししゅいっきが
僭󠄁して此󠄀處󠄀に臺󠄀灣󠄀の、王󠄀と名󠄀乘󠄀りし朱󠄀一󠄀貴󠄀が
すみしむかしのみやいあり、いまほういんをここにおく
住󠄁みし昔󠄀の宮󠄀居󠄀在󠄀り、今󠄀法󠄀院󠄀を此󠄀處󠄀に置󠄀く
現代語訳
台湾の王と自ら名乗ったという朱一貴が
住んでいた昔の居所がある(ここには)、今では裁判所が置かれている
(65)
そぞろになみだ、そのかみを、しのびまつるもかしこしや
漫󠄀に淚󠄀、其󠄀の上󠄀を、偲󠄀び祀󠄀るも畏󠄀しや
きたしらかわのきゅうでんか、ここにみまかりたまいけり
北󠄀白󠄀川󠄀の宮󠄀殿󠄀下󠄀、此󠄀處󠄀に身󠄀罷󠄀り給󠄀ひけり
現代語訳
知らぬうちに涙が流れてくる、その身の上を、偲び祀るも畏れ多い
北白川宮能久親王は、ここに薨去なされたのだ
(66)
きみのみことをうけたまい、このえのへいをひきつれて
君󠄀の勅󠄀を受󠄀け給󠄀ひ、近󠄁衞󠄀の兵󠄀を引󠄀き連󠄀れて
しまをたいらげたまいたる、みこのみいさをわするなよ
島󠄀を平󠄁らげ給󠄀ひたる、親󠄀王󠄀の御󠄀勳󠄀を忘󠄀るなよ
現代語訳
天皇陛下の勅命を承り、近衛兵を引き連れて
台湾を平定させられた、北白川宮能久親王の御功績を忘れるな
(67)
なはあんぴんときこゆれど、みなとしだいにうづもれて
名󠄀は安󠄀平󠄁と聞󠄀こゆれど、港󠄁次󠄁第󠄀に埋󠄀れて
たいせんきしにつながれず、ふうはをしのぐたよりなし
大󠄀船󠄂岸󠄀に繫󠄀れず、風󠄀波󠄀を凌󠄀ぐ便󠄁り無󠄀し
現代語訳
名前は安平と言われているが、港は次第に埋もれて
大きな船は岸に繋ぐことができず、風や波を凌ぐ方法がない
(68)
せっかんじょうしのだいようじゅ、はるかおきよりながめらる
赤󠄀崁城󠄀蹟󠄀の大󠄀榕󠄀樹󠄀、遙󠄀か沖󠄀より眺󠄀めらる
うみをゆくひとこのきをば、めあてとなしておうらいす
海󠄀を行󠄀く人󠄀此󠄀の樹󠄀をば、目󠄀當󠄀と爲󠄀して往󠄁來󠄀す
現代語訳
赤崁城址(現・安平古堡)の大きなガジュマルは、遥か遠くの沖からも見える
海を行く人はこのガジュマルを、目印として往来している
(69)
これよりかいろごじゅうにり、ぼうことうなるまきゅうこう
此󠄀より海󠄀路󠄀五󠄀十󠄀二󠄀浬󠄀、澎󠄀湖󠄀島󠄀爲󠄀る媽宮港
みなとのうちはみずふかく、たいかんきょはくとどむべし
港󠄁の內󠄀は水󠄀深󠄀く、大󠄀艦󠄀巨󠄁舶󠄀泊󠄀む可󠄀し
現代語訳
これより25海里(約50km)、澎湖島にある媽宮港
港の中は水深が深く、大きな船も停泊できる
第10章 高雄編
(70)
さらにきしゃにてちゅうしゅうしょう、しゃろけんすぎてたいこがい
更󠄁に汽󠄀車󠄀にて中󠄀洲󠄀庄󠄀、車󠄀路󠄀墘過󠄁ぎて大󠄀湖󠄀街󠄀
はんろちくへてあこうてん、きょうしとうよりなんしこう
半󠄁路󠄀竹󠄀經󠄀て阿󠄀公󠄁店󠄀、橋󠄀仔󠄀頭󠄀由󠄀り楠󠄀仔󠄀坑
現代語訳
更に汽車に乗って中洲庄(現・中洲)、車路墘を過ぎて大湖街(現・湖內)
半路竹(現・路竹)を過ぎて阿公店、橋仔頭(現・橋頭)より楠仔坑(現・楠梓)
(71)
とうほくさしてゆくときは、いもになをえしばんしょりょう
東󠄀北󠄀指󠄀して行󠄀く時󠄀は、蕃󠄀薯󠄁に名󠄀を得󠄀し蕃󠄀薯󠄁寮󠄀
しょうのういだすこうせんほ、いそぐたびとてたちよらず
樟󠄀腦󠄀出󠄀す甲󠄀仙󠄀埔󠄀、急󠄁ぐ旅󠄀とて立󠄀ち寄󠄀らず
現代語訳
東北を目指して行くときは、芋から名を得た蕃薯寮(現・旗山)
樟脳を生産している甲仙埔(現・甲仙)には、急ぐ旅なので立ち寄らなかった
(72)
きゅうじょうすぎてたかおこう、じゅうかんてつどうここにつく
舊󠄀城󠄀過󠄁ぎて打󠄀狗󠄀港󠄁、縱󠄀貫󠄀鐵󠄀道󠄁此󠄀處󠄀に盡󠄀く
しょうせんつねにふくそうし、ひゃっかはひびにやまをなす
商󠄁船󠄂常󠄀に輻󠄀輳󠄀し、百󠄀貨󠄁は日󠄀々に山󠄀を爲󠄀す
現代語訳
舊城を過ぎると打狗港(現・高雄)、縦貫線はここが終点である
(ここでは)商船が常に行き交っており、商品が日々山のように積まれている
(73)
なおもしせんにのりかえて、さんかいせきをとおりすぎ
尙󠄀も支󠄀線󠄀に乘󠄀換󠄀へて、三󠄀塊󠄀厝を通󠄁り過󠄁ぎ
おんらいいづるほうざんに、そうこうしゅうをさぐるべし
旺󠄀來󠄀出󠄀づる鳳󠄀山󠄀に、曹󠄀公󠄁圳を探󠄀る可󠄀し
現代語訳
更に支線(現・屏東線)に乗り換えて、三塊厝を通り過ぎ
パイナップルを生産している鳳山に、曹公圳を探検するのがよい
第11章 屏東編
(74)
こうしょうこえてきゅうきょくどう、いちりひがしにあこうがい
後󠄀庄󠄀越󠄀えて九󠄀曲󠄀堂󠄀、一󠄀里󠄀東󠄀に阿󠄀緱街󠄀
しもたんすいのかわぐちに、とうこうというみなとあり
下󠄀淡󠄀水󠄀の河󠄀口󠄀に、東󠄀港󠄁と云󠄀ふ港󠄁在󠄀り
現代語訳
後庄を越えて九曲堂、一里(約4km)東に阿猴街(現・屏東)
下淡水(現・高屏溪)の河口には、東港という港がある
(75)
これよりごりのかいじょうに、かすかにみゆるしょうりゅうきゅう
此󠄀より五󠄀里󠄀の海󠄀上󠄀に、微󠄀かに見󠄀ゆる小󠄀琉󠄀球󠄀
ながさはいちり、はばはんり、いづれのいえもしかをかう
長󠄀さは一󠄀里󠄀、幅󠄀半󠄁里󠄀、何󠄀れの家󠄀も鹿󠄀を畜󠄀ふ
現代語訳
ここより五里(約20km)の海上に、微かに見える小琉球
長さは一里(約4km)、幅は半里(約2km)、どの家でも鹿を飼っている
(76)
ぼうりょう、ぼうざん、ふうこうと、うみべのみちをたどりゆく
枋󠄀寮󠄀、枋󠄀山󠄀、楓󠄀港󠄁と、海󠄀邊󠄁の路󠄀を辿󠄁り行󠄀く
やまはせまりてうみをせめ、なみはげきしていわをかむ
山󠄀は迫󠄁りて海󠄀を攻󠄀め、波󠄀は激󠄀して岩󠄀を嚙󠄀む
現代語訳
枋寮、枋山、楓港と、海辺の道を辿ってゆく
山は海に迫っており、波は激しく岩を噛む
(77)
しゃじょうにそそぐしじゅうけい、そのかわかみのせきもんは
車󠄀城󠄀に注󠄁ぐ四󠄀重󠄀溪󠄀、其󠄀の川󠄀上󠄀の石󠄀門󠄀は
りょうがんいわおそばだちて、あたかももんのさまをなす
兩󠄀岸󠄀巖󠄀側󠄀立󠄀ちて、恰󠄀も門󠄀の狀󠄀を成󠄁す
現代語訳
車城に注ぐ四重溪、その川上にある石門は
両岸に巨石が立っており、門のような形となっている
(78)
めいじしちねんわがぐんが、がんきょうなりしぼたんしゃを
明󠄁治󠄀七󠄀年󠄀我󠄀が軍󠄀が、頑󠄁強󠄀爲󠄀りし牡󠄀丹󠄀社󠄁を
はげしくせめしところなり、みちにきねんのひをさぐれ
劇󠄀しく攻󠄀めし所󠄁爲󠄀り、途󠄁に記󠄀念󠄀の碑󠄀を探󠄀れ
現代語訳
明治7年に我が軍が、頑強であった牡丹社を
激しく攻めた所である(台湾出兵)、その道に記念碑を探ろう
(79)
こうたくひびにうるおいて、まなびのにわにばんどうが
皇󠄀澤󠄀日󠄀々に霑󠄀ひて、學󠄀びの庭󠄁に蕃󠄀童󠄀が
われおとらじとつどいきて、みくにことばのはなぞさく
我󠄀劣󠄀らじと集󠄀ひ來󠄀て、御󠄀國󠄀言󠄀葉󠄀の花󠄁ぞ咲󠄁く
現代語訳
天皇陛下の恩沢が日々潤って、学びの庭に原住民の子供達が
自分は優秀なのだと集まってきて、国語の花が咲いている
(80)
きこうはいつもあたたかに、はるのごとしときこえたる
氣󠄀候󠄀は何󠄀時󠄀も暖󠄁かに、春󠄀の如󠄀しと聞󠄀こえたる
こうしゅんがいにいたりなば、もとめてきたれこちょうらん
恆󠄀春󠄀街󠄀に至󠄀りなば、求󠄀めて來󠄀たれ胡󠄀蝶󠄀蘭󠄁
現代語訳
気候はいつでも暖かく、春のようだと言われている
恆春街(現・恆春)に着いたなら、胡蝶蘭(花の一種)を手に入れるのがよい
(81)
ここにてせいぶはてぬれば、かいろとうがんさぐらんと
此󠄀處󠄀にて西󠄀部󠄀果󠄀てぬれば、海󠄀路󠄀東󠄀岸󠄀探󠄀らむと
たよりをまちてかいひんの、だいはんろくをふなでせり
便󠄁りを待󠄀ちて海󠄀濱󠄀の、大󠄀板󠄀轆󠄀を船󠄂出󠄀せり
現代語訳
ここにて西部は終わりなので、海路により東岸を探ろうと
船便を待って海辺にある、大板轆(現・南灣)を船出した
(82)
バシーかいきょうへだてたる、ルソンとはるかあいむかう
バシイ海󠄀峽󠄀隔󠄀てたる、ルソンと遙󠄀か相󠄀向󠄀かふ
さいなんたんのがらんびに、だいとうだいをもうけたり
最󠄀南󠄀端󠄀の鵝󠄀鑾󠄀鼻󠄁に、大󠄀燈󠄀臺󠄀を設󠄀けたり
現代語訳
バシー海峡を隔て、(フィリピン)ルソン島と遥かに面している
最南端の鵝鑾鼻には、大きな灯台が設けられている
第12章 台東編
(83)
はなをまわりてほっぽうに、ふなじをかえてすすみゆく
鼻󠄁を囘󠄀りて北󠄀方󠄀に、船󠄂路󠄀を換󠄀へて進󠄁み行󠄀く
かいじょうとおくこうとうしょ、くもかやまかとうすがすむ
海󠄀上󠄀遠󠄁く紅󠄀頭󠄀嶼󠄀、雲󠄀か山󠄀かと薄󠄁霞󠄀む
現代語訳
鼻を回って北方に、船路を変えて進んでゆく
海上遠くには紅頭嶼(現・蘭嶼)、雲か山かと薄く霞んでいる
(84)
しまのめぐりはくりあまり、たいこのさまをみるごとき
島󠄀の巡󠄁りは九󠄀里󠄀餘󠄀り、太󠄀古󠄀の樣󠄀を見󠄀る如󠄀き
いとあわれなるばんみんが、にせんばかりもすむときく
いと憐󠄀れ爲󠄀る蠻󠄀民󠄀が、二󠄀千󠄀許󠄀も住󠄁むと聞󠄀く
現代語訳
(蘭嶼の)島は一周約9里(約36km)、大昔の様子を見ているようだ
とても(文明に遅れて)可哀想な原住民が、二千人ほど住んでいると聞く
(85)
やがてぴなんにきこうせり、たいとういったいみかいのち
軈󠄀て卑󠄀南󠄀に寄󠄀港󠄁せり、臺󠄀東󠄀一󠄀帶󠄀未󠄀開󠄀の地󠄀
てんよのいりはそのままに、ひとのきたりてとるをまつ
天󠄀與󠄀の遺󠄁利󠄀は其󠄀儘󠄀に、人󠄀の來󠄀たりて取󠄀るを待󠄀つ
現代語訳
やがて卑南に寄港した、台東一帯は未開の地
天より与えられた資源はそのままに、人が来て取るのを待っている
第13章 花蓮編
(86)
くろしおにそいすすみつつ、つぎにたちよるかれんこう
黑󠄀潮󠄀に沿󠄀ひ進󠄁みつゝ、次󠄁に立󠄀寄󠄀る花󠄁蓮󠄀港󠄁
いみんのけいかくほをすすめ、かいたくじぎょうおこりたり
移󠄀民󠄀の計󠄀畫󠄀步󠄀を進󠄁め、開󠄀拓󠄀事󠄀業󠄀興󠄀りたり
現代語訳
黒潮に沿い進みつつ、次に立ち寄るのは花蓮港
移民の計画が進んでおり、開拓事業が興っている
(87)
これよりにえんがんにじゅうより、いくせんじゃくのだんがいが
此󠄀より沿󠄀岸󠄀二󠄀十󠄀餘󠄀里󠄀、幾󠄁千󠄀尺󠄀の斷󠄀崖󠄀が
うみにせまりてそびえたち、ふねをよすべきところなし
海󠄀に迫󠄁りて聳󠄀立󠄀ち、船󠄂を寄󠄀す可󠄀き所󠄁無󠄀し
現代語訳
これより沿岸二十数里(約80km)、数千尺(数百メートル)の断崖が
海に迫ってそびえ立っており、船を寄せるところがない
第14章 宜蘭・台北編
(88)
そおうのみなとにふねをすて、ぎらんのへいやをよこぎりて
蘇󠄀澳󠄀の港󠄁に船󠄂を捨󠄁て、宜󠄀蘭󠄁の平󠄁野󠄀を橫󠄀切󠄀りて
それよりさんろわけいらば、しんこうちほうにいたるべし
其󠄀れより山󠄀路󠄀分󠄁け入󠄀らば、深󠄀坑地󠄀方󠄀に至󠄀る可󠄀し
現代語訳
蘇澳の港にて船を降りて、宜蘭の平野を横切って
それより山道を入ってゆけば、深坑地方に至るのだ
(89)
はまべのみちをこえゆけば、さんしょうかくはみぎにいづ
濱󠄀邊󠄁の路󠄀を越󠄀え行󠄀けば、三󠄀貂󠄀角󠄁は右󠄀に出󠄀づ
りょうたいえきまっさきに、このえのぐんのじょうりくち
領󠄀臺󠄀役󠄀眞󠄀先󠄀に、近󠄁衞󠄀の軍󠄀の上󠄀陸󠄀地󠄀
現代語訳
浜辺の道を越えてゆけば、三貂角が右に現れる
台湾占領の際に真っ先に、近衛兵の軍が上陸したところである
(90)
これよりもとへかえるみち、こがねほりだすぼたんこう
此󠄀より元󠄀へ歸󠄀る道󠄁、黃󠄀金󠄀掘󠄀出󠄀す牡󠄀丹󠄀坑
なおもずいほう、きんかせき、たからのやまはつらなれり
尙󠄀も瑞󠄀芳󠄀、金瓜石、寶󠄀の山󠄀は連󠄀なれり
現代語訳
ここからは台北へと戻る道、黄金を掘り出す牡丹坑(現・牡丹)
更に瑞芳、金瓜石、宝の山が連なっている
出典:臺灣周遊唱歌(1910年、作曲:宇井英、作詞:高橋二三四)
参考:正字体の正確性を期すため、本記事の執筆にはiOS版旧仮名キーボード(開発:Yoshinaga様)を利用いたしました。


