奇易と私 〜中国語版Mac OS開発物語〜
先日、弊サイトでは「忘れられた「台湾初のMac」を求めて:System 5.1 TA1徹底レビュー」という記事を公開いたしました。
その後も台湾におけるmacOSの歴史について調べていたところ、何と世界で初めて中国語版Mac OSを開発した鄭安巽(ジェン・アンシュン)氏の手記を発見しました。
鄭氏はたまたま訪れた1984年のCOMPUTEX TAIPEIで見かけたMacintosh 128Kに一目惚れし、
20代の若さにして当時は中国語版が存在しなかったMac OS System 1.0に僅か45日で中国語を組み込んだという伝説の持ち主です。
以下の文章は、鄭氏がInfoMac 1992年11月号に寄稿した中国語版Mac OSの開発に至るまでの手記を日本語に翻訳したものです。
いち台湾人により開発された中国語版Mac OSが巻き起こしたAppleとの闘争、そしてそこに巻き込まれた1980年代の台湾コンピューター業界の重鎮同士の人間模様が克明に描かれています。
翻訳の過程で、これだけで映画が一本作れるレベルの濃密な文章だと感じざるにはいられませんでした。
日本語ではどこにも掲載されていない、台湾におけるAppleとMac OSの成り立ちが手に取るようにわかる極めて貴重な資料です。
長い文章ではありますが、ご興味のある方は腰を据えてじっくりとご覧ください。
(致鄭安巽先生及奇易雲科各位:以下文章為南洋翻譯獨自把刊登於貴公司官網之文章『奇易與我』翻成日文,企圖讓更多日本人知道蘋果系統在台灣的發展歷史。如貴公司對以下文章有任何意見請與本所聯繫,本所將積極處理。)
目次
奇易と私
著者:鄭安巽 様
この文章は、奇易特刊および月刊InfoMac 1992年11月号に掲載していたものです。当時の文章を見つけていただいた皆様に、この場を借りて深く御礼申し上げます。
【奇易中文系統※1は、その発売から現在に至るまで多くの支持を得てきました。しかし、開発の舞台裏や『奇易資訊』※2の設立に至った背景については、これまで表に出ることがないままでした。この手記は、これらの裏事情について記すとともに、台湾における中国語版Mac OSの発展を詳らかに記録したものです。】
その年、私はまだ兵役期間の途中であった。1984年12月、私は兵役の休暇を利用してCOMPUTEX TAIPEIへと足を運んだ。当時のコンピューター業界はIBMの天下と言っても過言ではなく、会場のほぼ全てがIBM PCとその互換機で埋め尽くされていた。私は入隊前からApple IIに大きな関心を抱いており、兵役期間中も部隊にコンピューターを持ち込んでいた。そのときは退役まで後少しの時期だったため、何かいいモノがあれば買ってしまおうという心づもりで訪れており、展示されている製品をそれはそれは細かく見てまわったのであった。
※1: MacChina、鄭安巽氏が開発した中国語版Mac OSの名称
※2: 鄭安巽氏が設立した会社、現在の奇易雲科有限公司
Macとの邂逅
私が最も目を惹かれたのは、『福斯興業』※3の展示であった。同社の展示している製品はどれも非常に独特であった。他のコンピューターとは明らかに異なる外観、そしてキーボードの右側から生えている小さな物体(この物体が『マウス』という名前であることを知るのは、まだ先のことである)。この年に展示されていたコンピューターの中でマウスが備え付けられていたのは、Apple IIc、LisaとMacintoshの3台のみ。私が特に気になったのは、モニタに表示されているさまざまなアイコンとその操作方法についてだった。私はただ立ち尽くして時間を忘れるほど観察していたが、スタッフがキーボードを用いてパソコンを操作している様子は遂に一度も見られなかった。そしてハッと我に返ったときには、既に30分が経過していた。
このときは兵役期間中の休暇を使ってCOMPUTEX TAIPEIを訪れていたため、その場に長く留まることはできず、引き続き他社の製品も見て回った。その後、部隊に戻ってからも、IBM PC, Apple IIc, LisaとMacintoshという4台のコンピューターの違いを細かく研究していたところ、CPUの仕様が大きく異なることに気付いた。Apple IIcはApple IIのOSとMOS 6502というCPUを踏襲していたため、最大でも64KBのRAMにしか対応していなかった。IBM PCは最大640KBのRAMを活用できるIntel 8088というCPUを搭載していたものの(当時、640KBのRAMは大変魅力的であった)、Intel 8088ではRAM割当に『双レジスタ重複セグメントアドレス指定法』という方式を用いており、RAM割当能力は最大1,024KBまでと、発売前に既に死が確定していたようなものであった。一方で、AppleのLisaやMacintoshにはMotorola 68000が搭載されており、32bitのリニアアドレス割当能力を持ち合わせていたこともあり、拡張性に優れていた。更にMacintoshはLisaから生まれた新型機であったため、私はMacintoshを買うという決断を下したのだ。
退役まで残り1か月を切ったある日、私は現金と小切手を携えてMacintoshの販売店を訪ねて回った。COMPUTEX TAIPEIでも見かけた福斯興業を訪ねたとき、一人のスタッフに『Mac OSには中国語版もあるのか』と聞いたところ、彼は『ありません』と答えた。そこで『アセンブラはあるか』と聞いたところ、一体そんなものを使って何をするのかと不思議がられた。私は『Mac OSに中国語版がないのであれば、私が自分で作る』と言ったが、彼は『そのような作業は我々、福斯興業が行うべきことです』と言い放った。
※3: フォルクスワーゲン台湾、当時はAppleの製品も販売していた
Mac OSに中国語を
その後、私は『方位電腦』という会社から人生初のMacを購入し、退役後はそのまま方位電腦に就職した。そして就職から45日目で、初の中国語版Mac OSを完成させ、1985年6月のCOMPUTEX TAIPEIにて展示した。このときの最大の来訪者は、元総統の嚴家淦※4氏と施振榮※5氏であった。方位電腦のブースを訪れた施氏が嚴氏に、『近い将来、コンピューターは全てこのようになります』と話していたことが印象深い。嚴氏がCOMPUTEX TAIPEIを訪れたことは、当時の新聞にも掲載された。しかし実のところ、当時のMacintoshには128KBのRAMしか搭載されておらず、ハードディスクもなかったため、会場で展示していた中国語版Mac OSはRS-232Cケーブルを用いて机の下に隠された『仲鼎漢卡』※6を搭載したApple IIeと接続している仕様であった。Macintosh側で倉頡※7を用いて漢字を入力するときは、まず倉頡の文字コードをApple IIeの仲鼎漢卡に送信し、対応する漢字をApple IIeからMacintoshのモニタに表示させるという始末であった。
COMPUTEX TAIPEIの終了後、福斯興業の社長であった斯重慶氏が私を大絶賛し、特別に方位電腦にLisaとMacintosh 512Kをそれぞれ一台ずつ貸し出してくれた。当時のLisaは既にMac OS※8と5MBのハードディスクを搭載しており、FAT Macと呼ばれていた。
聞いた話によると、私が中国語版Mac OSを作ったことはIII※9の金策を妨害してしまったようだ。当時、Apple本社が福斯興業経由で2万米ドルを投じてIIIに中国語版Mac OSの実現可能性を調査させたところ、IIIは1,000万元以上の費用と2年以上の時間がかかると回答したそうだ。私が『うっかり』中国語版Mac OSを完成させてしまったせいで多くの関係者が計画を狂わされ、私が『たったの』45日間働いたばかりに、一つの取引が潰れてしまったらしい。
※4: 中華民国第5代総統
※5: Acerの創業者
※6: 漢字カード、漢字の情報が収録された部品。当時の多くのPCでは漢字が扱えなかったため、別途このような部品の装着が必要であった
※7: 中国語の入力方式
※8: 当時、LisaはMacintosh XLとしても販売されており、MacWorks XLというソフトウェアによりMacintoshとの互換性が確保されていた
※9: Institute for Information Industry, 財團法人資訊工業促進會
奇易中文系統の誕生
方位電腦には足掛け3か月ほど在籍していたのだが、ある日突然倒産してしまった。その後、私は『奇易資訊』を設立しAppleの代理店となったのみならず、自作の中国語版Mac OSを『奇易中文系統(MacChina)』と命名し、市場へと売り出した。会社はそごう台北忠孝店の近くにある東方ビルの8階にあった。設立からしばらくして、Apple本社から来たと名乗る人物が会社を訪れ『奇易中文系統について詳しく見せて欲しい』と頼んできた。私は喜ぶ気持ちを抑えつつ彼に奇易中文系統を見せたところ、彼は何度か操作をしたのちに『これを一人で作ったとは本当に驚いた。しかし、これは我々が理想とする中国語版Mac OSではない。』と告げた。
次の一年間では、私のコミュニケーション能力不足により福斯興業との関係が崩れてしまい、遂には福斯興業の一部社員が奇易中文系統の売上を落とすべく『Apple公式の中国語版Mac OSがまもなく市販される』とデマを拡散させるまでに至った。しかし1986年になり、Appleは香港にApple Far EastおよびApple Hong Kongを設立し、Apple Hong Kongにより公式中国語版Mac OSを開発することを発表した。これにより、福斯興業の一部社員がそこかしこに吹聴していた噂は全くのデマでであったことが明らかになった。後に公式中国語版Mac OS開発計画の責任者を務めていたLouis氏が台湾を訪れ、彼らの計画に参画してくれる人物を探し、遂には黃東輝氏に尋ね当たった。しかし、黃氏は奇易中文系統を支援していたため、公式中国語版Mac OSの開発は奇易資訊にとって不利になるからとこの誘いを退けたのであった。
(当時、福斯興業の一部社員がApple代理店に対して『公式中国語版Mac OSがまもなく発売される』と嘘をついたことにより、代理店での奇易中文系統の発売が中止されてしまった。その後、Appleでの公式中国語版Mac OSの開発はまだ始まってすらいないことが判明し、奇易中文系統を搭載していないMacintoshを販売した代理店は返品の嵐に怯えることとなった。そのため、代理店が福斯興業の社長に事態の沈静化を要望したところ、社長は一言『やらかした奴が責任を取れ』とだけ言ったそうだ。その後、福斯興業のある社員が私の会社を訪れこの件を謝罪した。私は腹の虫が収まらなかったので、2時間ひたすらに彼を説教した。彼はたばこを2箱も吸いながら、一言も言葉を発さずただただ私の言葉に頷いていた。そのまた後、高雄の代理店である『傳播(光男集團)』の社長を勤めていた吳聲譽氏が私の元を訪れ、奇易中文系統を売って欲しいと頼んできた。私はこれまでの経験から、10セット以上でなければ売らないと答えた。彼は私の話を聞くや否や、その場で約束手形を取り出し10万元と書き込んだ上で私に渡してきた。私は世の中に疎く約束手形の何たるかを知らなかったため、彼に小切手ではダメなのかと聞いた。彼は笑いながら『小切手は不渡りになる恐れがある。約束手形の方が確実だ。約束手形はいわば現金そのものなのだから。』と説明した。私は半信半疑であったが、これは私の人生において初めての大型取引であった。ちなみに当時、大卒初任給は僅か8,000元程度であった。実は奇易中文系統の初の買手は、方位電腦を通して販売したNCSIST※10であった。当時NCSISTには2セットを販売したのだが、代金は方位電腦が受け取っていたので私には特に恩恵はなかった。更に私は方位電腦に投資していたため、同社の倒産時には10万元の損失を被る羽目となったのだ。方位電腦の当時の代表は唐瑾氏であり、かつてバラエティ番組『綜藝100』や『週末2100』のブレーンとしても活躍していた。方位電腦の事務所はとあるラジオ会社の中にあり、その中には有名タレントである張小燕氏や張艾嘉氏の事務所も設けられていた。当時『明天會更好』というヒットソングがあったのだが、私が方位電腦に在籍していた頃、ちょうど彼女らがこの曲を制作していた。彼女らは隣の事務所で3か月も制作をしていたので、この曲が世に出たときには私は既に歌えるようになっていた。誰かがが私に『最近出たばかりの曲なのに、なぜもう歌えるんだ?』と聞いたとき、私は『え、有名な古い曲なんじゃないの?』と返したのだった。)
※10: National Chung-Shan Institute of Science and Technology, 國家中山科學研究院
Mac OS中国語化プロジェクトへの参加
その後、福斯興業の社長の推薦により、私は遂にApple公式のMac OS中国語化プロジェクトへと参画するに至った。当時は完成された中国語版Mac OSがありさえすれば、奇易中文系統は今後どうなってもよいと思っていたし、そもそも私は技術畑の人間なので、このプロジェクトへの参加には特に抵抗はなかった。こうして、1987年5月8日に私はAppleと正式に契約を締結した。
その後6か月間、作業を進める中で、私はこのプロジェクトはあまりにも『先進的』すぎることを悟った。互換性や実用性は全くと言ってよいほど考えられておらず、制作したソフトウェアは英語版のMac OSでは作動しない体たらくであった。これは後にScript Managerとなるソフトウェアだった。私は何度もこのプロジェクトが失敗する可能性について警鐘を鳴らしたが、その度に私とAppleの間で大きな衝突が発生した。後にAppleの方でも何度か軌道修正を実施したが、それでも所謂『米国第一主義』の状態からは抜け出せず、中国語版Mac OSが今後直面するであろう壁に向き合おうとはしなかった。
中国語版Mac OSはChinese Talkと名付けられ、発表会も開催された。これと同時に、台湾の代理店は福斯興業に圧力を掛けはじめた。福斯興業は圧力に耐えきれず、ある代理店総会議の場において、社長自ら代理店に奇易中文系統を売り込んだ。そのとき、代理店組合の代表は私にChinese Talkと奇易中文系統の違いを説明しろと言ってきた。私はChinese Talkで最も有益なソフトウェアはScript Managerであるが、このソフトウェアが実用レベルに達するまではこの先3年から5年ほどかかるであろうと説明した。
Chinese Talkの発売後、Appleは開発を引き続き手伝って欲しいとの意向を示していたが、私がこれを断ったため代わりに『光河資訊』を迎え入れた。このとき、またしても福斯興業の一部社員が、『光河資訊がテコ入れしたChinese Talkは奇易中文系統の何倍も使いやすくなる』と煽りを掛けていた。しかしChinese Talk 6.0.3が発売されたとき、『Chinese Talkはバグの塊である』という、一つの不変の事実に遂に全員が気付いたのであった。
(後にまたしてもある出来事が起こった。当時、『台中州全電腦』の林火生氏が中国語版Mac OSを独自に開発したと発表し、福斯興業にデバッグをさせた。福斯興業から私に一度実物を見て欲しいと連絡が入り見に行ったとき、モニターに『?』の表示があるのを見て私は明らかに何かがおかしいと感じた。プログラムが奇易中文系統と瓜二つであり、バグまで一致していたからだ。林火生氏は博士号持ちの専門家に頼んだら数日で完成したと話していそうだが、ひとつ重要なことに気付いていなかった。フォントと文字コードの取得元の問題である。彼らがアセンブラを用いてリバースエンジニアリングを実施したことは、私ならいくらでも証明できた。私は福斯興業に電話を掛けてその旨を告げた。ある日の朝、福斯興業のマネージャーが私の会社を訪れ、昼まで延々とくだらない話をしていた。私は彼とは面識があったが二人で話し込むほどの仲ではなく、事前に来社するとの連絡もなかったため、一体何が目的なのか、それともただ単にコイツはヒマなのかと訝しんでいた。するとそこに、台中州全電腦から内容証明郵便が届いた。私は中身を確認すると怒りで震え上がった。実は彼は今日その内容証明郵便が届くことを知っており、私を落ち着かせるために来ていたのであった。その後、福斯興業のアシスタントマネージャーが私をそごう台北忠孝店のレストラン街にある日本料理屋に誘った。食事の場では私を『若いのに落ち着いている』と褒めちぎっていた(当時の私はまだ20代であった)。更に、後にそのアシスタントマネージャーは彼の娘を私の会社で働かせたのだった。日本料理を食べ終え、会社に戻るともう遅い時間であった(当時私は漢宮ビルの10階に住んでいた)が、なんと林火生氏その人が訪ねてきた。家に迎え入れると、彼は長い時間をかけて私に事の顛末を話した。曰く、彼は福斯興業の罠に嵌ったのだという。福斯興業の社員が彼に中国語版Mac OSを開発するように言いつけ、彼は知り合いの専門家に頼んだだけなので、結局のところ誰がどう開発したMac OSなのか彼自身でも分からないままでいた。更にまさか福斯興業がベータ版を奇易資訊に渡すとは思っておらず、もうこれで終わりだと震えていた。既に弁護士にも相談し、裁判の場で罪を認め、その上で私を証人として福斯興業を企業秘密漏洩の廉で訴えるつもりでいた。しかし、私は林氏にあなたを訴えるつもりはないと伝えた。それを聞いた林氏は、内容証明郵便まで出して私を怒らせたのに訴えないとはどういうことだ、とたいそう不思議がった。彼もまた、私が若いのに落ち着いていることに感銘を受けていた。この話しぶりは福斯興業のマネージャーと瓜二つであった。実のところ、台中州全電腦は既に私の奇易中文系統を何セットも売ってくれていた。台中の林火生氏と高雄の吳聲譽氏は元より奇易中文系統の支援者であり、両氏とも後にパソコン商工協会の理事長にまで上り詰めた、大変素晴らしい台湾コンピューター業界の名士である。)
Apple Taiwanの成立
Appleが台湾に支社を構えたとき、誰もが私を迎え入れるだろうと予想していたが、現実は全くの真逆であった。Appleは奇易中文系統に総攻撃を仕掛けたのだ。Appleは無料のChinese Talkが有料の奇易中文系統から市場を奪えていないのは、専ら福斯興業のマーケティングが悪いせいだと思い込んでいた。そのため、Appleは台湾に来るや否や、『新しい中国語の風』をテーマに500万元を注ぎ、大宴会を開いたのであった。宴会には台湾Macintosh業界の名士が多数招かれていたが、奇易資訊への招待状は『うっかり』出し忘れていたようだった。それから半年の間、Appleは公式代理店に奇易中文系統の販売を禁止し(何社もの代理店がこの件を私に報告してきた)、奇易中文系統を市場から追い出すと宣った。しかし、そうは問屋が卸さなかったようで、この半年の間、私を助けてくれた人はいなかったにもかかわらず、弊社の業績はうなぎ登りだったのだ。
System 7の発売
System 7を発売するときになり、Apple Taiwanはようやく奇易中文系統の偉大さに気付いたようであった。Chinese Talkは全くもってSystem 7では動作せず、一方で奇易中文系統は何事もなかったかのように動作していたからだ。これを見たAppleは遂に私を迎え入れる決断をした。私は当時Appleに行く気は毛頭なかったのだが、ある日龍山寺でおみくじを引いたとき、2枚の同じようなことが書かれているおみくじが出てきた。1枚はあまり強がるな、もう1枚は人に優しくしろという内容だった。これを読んだ私は遂にAppleに協力することを決めたのであった。このとき、私の心の中にあったモヤモヤが一気に溢れ出し、同時に自身の心の狭さにも気付いた。Apple Taiwanの社長を務めていた胡國輝氏は、私があれやこれやと不平不満を漏らす様子を黙って聞いた後、私のAppleへの貢献は賞賛に値すると話しかけた。続けて、Chinese TalkはAppleのいちプロジェクトであり、彼もまたAppleのプロジェクトを進めているだけに過ぎず、私の奇易中文系統に文句を付ける気は1ミリもないと歩み寄った。更に私をAppleのテクニカルコンサルタントとして採用し、Appleの名誉デベロッパーとして迎え入れると話した。その後6回におよぶ会議を経て、Appleは奇易中文系統の権利を購入し、Chinese Talkを奇易中文系統で置き換えることを決め、契約書も交わした。ところが、ここにApple Hong Kongが待ったをかけた。曰く、『Appleのプログラムを外注することは許されない』とのこと。結局、私はAppleの要請に応じ、奇易中文系統にScript Managerを搭載することで、何とか事態の収集を試みた。胡國輝氏はそのお礼にと、当時20数万元は下らなかったMacintosh II siを贈ってくれたのだった。
(奇易資訊を設立してから、私は3度贈り物を受け取っている。1度目は福斯興業が市場価格30数万元のMacintosh IIを贈ってくれたので、私はお礼に16x16の中国語フォントを無償で提供した。2度目はApple Taiwanが市場価格20数万元のMacintosh II siを贈ってくれたので、私はScript Managerの開発を手伝った。3度目は数年後、ある中国語版LaserWriterを開発していた会社が、市場価格40数万元のLaserWriterと中国語フォント内臓ハードディスクを贈ってくれたので、私は同社のためにMacintoshの出力に関する問題の解決を手伝った。私がここで『贈り物』と表現しているのは、誰もこれらを私にくれたときに一切の見返りを求めなかったからである。ただ単に、各社とも私であれば解決できそうな問題を抱えていたので、人助けのついでに友達を増やすつもりで手を差し伸べた。)
System 7の発売後、奇易中文系統は更に賞賛を浴びるようになった。インストール数は右肩上がりとなり、Appleが私を正式にテクニカルコンサルタントとして招聘したことを受け、各代理店も奇易中文系統の販売を再開した。その後、Apple TaiwanはApple Hong Kongの圧力に押され、System 7をサポートするChinese Talk IIの開発を開始した。今回の中国語版Mac OSはこれまでのものとは全くと言ってよいほど異なり、ほぼ奇易中文系統そのものとなった。Chinese Talk IIの発売後、多くの人たちが私に『あれは君が開発したのだろう、奇易中文系統の特徴がそっくりそのまま出ている』と言ったのだった。
(その後、Apple TaiwanはPageMakerの開発元にChinese Talk IIで使える中国語版PageMakerを開発するよう頼んだのだが、出来上がったソフトウェアは何故か奇易中文系統でしか正常に動作しなかった。Apple Taiwanは大変悩んだあげく私を呼び出し、手元に500セットある中国語版PageMakerをどうにかしてくれと頼んできた。私は驚いたが、後になってPageMakerの開発元が使用していたMacintoshにはChinese Talk IIではなく奇易中文系統がインストールされていたことが判明したのだった。)
それでも奇易中文系統の開発は続く
AppleのChinese Talkは無料だが、開発コストはMacintoshの販売利益から回収できる。一方、奇易中文系統は単独のソフトウェアであるため、開発費用はソフトウェアの売上高から回収しなければならない。そのため、奇易中文系統の販売価格はどうしても一定の水準を保たなければならない。しかし、今日までの8年間、私が何とか経営を続けてこられたのは、奇易中文系統というソフトウェアそのものだけでなく、皆様の奇易中文系統に対するある種の信頼があってこその賜物だろう。
この8年間、奇易資訊は多くの人にただのよくある中小企業だと思い込まれていた。奇易中文系統は私が一人だけで開発しているため、ある日突然開発が終わってしまうのではないかと懸念を抱く人もいた。彼らがそのように考えるのも無理はないが、一つだけ胸を張って言えることがある。奇易中文系統の開発は既に8年間も続いており、今後も開発は続く。中にはこのことを信じない人もいる。その一方、AppleがChinese Talkを開発していたのは僅か5年で、先日Apple本社が正式にChinese Talkの開発を終了すると発表した。これもまた、一部の人々にはまだ信じられていないようだ。
それでは、Mac OSは本当に外注してはいけないのか?
1992年11月現在、Apple Taiwanは既存ユーザーのために、Chinese Talkを元Apple Taiwan社員が設立した会社に外注し、今後のメンテナンスを委任する予定だそうだ。あのとき、弊社が外部の会社であることを理由に、Apple Hong KongがApple Taiwanによる奇易中文系統の購入に待ったをかけたにもかかわらずだ。私は遊ばれていたのか?それとも台湾のMacintoshユーザー全員が遊ばれていたのか?
System 6.0、7.0から7.1へ
System 7.1がまもなく発売される。弊社は引き続き、奇易中文系統をSystem 7.1にも対応させる予定だ。Appleの方でも引き続き、バグのおまけつきのChinese Talkを送り出してくるだろう。Apple本社は、System 7.1にはChinese Talkは対応せず、Script Managerも搭載されず、代わりにWordScriptが搭載されると発表している。彼らにとってこれはちょっとしたお遊びのようなものだろう。新たなバグを綺麗な包装紙で包み、『贈り物』と称してユーザーの元に『届ける』のだ。制作にかかったコストは、必ず誰かが負担しなければならないのだから。


